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春の訪れを感じる水元公園の早咲き桜。 [日常]

2017年も早いもので丸2か月が経過しました。

2月末、まだまだ寒い日がありますけど、一昨日(2月26日)、隣町の東京都葛飾区を散歩して「おお、春だあ」と感じる風景に出会えたので、ベタですがご報告です。

場所は、葛飾区が世界に誇る(というのは言い過ぎかな)水元公園。ワタクシの早朝散歩コースのひとつであります。

「水元(みずもと)」の名のとおり、大きな池に沿って散策路や広場が整備されています。園内全部を徒歩で回ると2時間はかかるでしょう。広大であります。ちなみに水元公園の良いのは駐車場(有料)が完備されていること。車で来て、園内散策できるのが良いですね。

さて春を感じる風景です。日本人としては、やっぱり「桜」でしょうなあ。

公園の中央にある早咲き種「河津桜」が満開であります。どーん。

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いっぽう、レストハウスの脇にある若い桜も花をつけております。

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こちらは河津桜ではなく、ソメイヨシノではないか?植物に詳しくないので、同定できないのが寂しい限りですが。

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おお、春じゃあ春じゃあ!と、嬉しくなった次第。

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明日からは3月です。ワタクシの勝手な思い込みでは「2月=冬、3月=春」と明確に分かれています。つまり2月28日と、3月1日のたった1日で、季節がカチャッと切り替わる感覚です。だからどう、というハナシでもないんですがね・・・とほほ。

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さあ、あと一か月もすれば、水元公園にある大きな桜の木たちも、じゃんじゃん花を咲かせることでしょう。今から楽しみ楽しみ・・・。それでは、ちゃおー。


南伸坊さん著「本人伝説」「本人遺産」。爆笑必至の本人術には、ただ感服するばかりです。 [本]

本日は、2冊の本をとりあげます。

南伸坊さん、文子さんご夫妻による「本人伝説」(2012年)と「本人遺産」(2016年)であります。

いやあ、驚きました。イラストレーター南伸坊さんが、顔真似名人ならぬ「本人術」の名手なのは重々承知していました。しかし齢60を過ぎてなお、求道士のごとく、たゆまぬ研鑽をつみ、結果、あまりにバカバカしい進化と成長を遂げていたとは驚きモモノキ(古っ!)と言わざるをえません。ワタクシ、今回ばかりは自分のアンテナの低さ、不勉強を恥じ入る次第であります。はいっ。

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・・・と唐突に熱く語っても、なんのこっちゃ?とポカン状態の方へ、本作のツボをご説明しましょう。思いっきり手抜きして、「本人伝説」文庫本の裏から抜粋します。

「自らの顔をキャンバスに見立て、究極の似顔絵を描いてみせる南伸坊の『本人術』。政治家では安倍晋三、バラク・オバマ、スポーツ界では浅田真央、ダルビッシュ有、さらにダライ・ラマやジョブズまで・・・(後略)」

要するに、南伸坊さんがカツラ、衣装、化粧、表情の変化、ときにはアクションを駆使して有名人「本人」になりきり、そのポートレイトを奥様の文子さん(カメラマン)が撮影した写真集なんですね。

掲載された「本人」写真の数々に、あ、似てる、似てない、などと真面目に反応してはツマラナイ。ページをめくるたび、バカバカしさに大笑いすればよいのです。なんとラクチンな読書(?)であろうか。中学生、高校生の諸君、宿題に読書感想文が課されたら、ぜひとも、この2冊をチョイスください(確実に先生からは怒られるだろうけどネ)。

そもそも、オニギリ顔の南伸坊さん、ですよ。石川遼、錦織圭、堺雅人もヒドイけど男性だから百歩譲って許しましょう。しかし異性(女性)のベッキー、滝川クリステル、浅田真央、蓮舫、壇蜜・・・となると暴挙を超えて、もはや狂気の沙汰であります。とはいえ、その行為(心意気)だけでも、がははは、と大笑いできる点が本人シリーズの素晴らしさですねえ~。

「本人伝説」より、松田聖子さん(になりきった南伸坊さん)。プッ。。。

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「本人遺産」より、トランプ大統領(になりきった南伸坊さん)。ププッ。。。

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さらなる「本人」を観たい方は、本屋さんやamazon等で「本物」の本をご購入して、堪能くださいまし。

以上で、今日のブログを終わろうと思ったら、おお、そうだ。ここ数日間(2017年2月中旬以降)、ずーっとトップニュースになっている事件の「あの方」を伸坊さんは4年以上前に、本人術の対象にしていたんですね。どーん。

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マレーシアで暗殺されるとは・・・という事件にめげず、伸坊さん、これからもバシバシ「本人」になって世間に明るい笑いを振りまいて下さいっ!よろしくですーー。

ちなみにワタクシが、伸坊さんの本人術で、もっとも衝撃を受けた作品は、たぶん30年くらい前と思いますが、斉藤由貴(になりきった南伸坊さん)でした。失礼ながら、あのお顔でセーラー服を着てましたもんね~、いやあ、夢に出てきそうな、ものスゴい破壊力でした。ちゃんちゃん。


自宅2階の廊下に絵を飾り、なんともユル~イ感じになったハナシ。 [日常]

昨年、北陸の金沢で購入した2枚の絵柄布(大きな日本手ぬぐいをご想像ください)を、家の者がわざわざ額縁屋さんに頼んで、ビシッと額におさめてもらったのです。

それぞれが幅45センチ、高さ1メートルの額縁絵になりました。立派な装飾品に見えます。さっそく、自宅2階の廊下の壁に飾ってみると、お、良いじゃん。美術館っぽいじゃん・・・は言い過ぎか。はい。

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絵柄は、ワンコ(犬)とニャンコ(猫)が仲良くしている様であります。仲良きことは美しき哉 by 実篤。嗚呼。

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特に気に入ったのは、左の絵に描かれたネコちゃんのゆるんだ寝姿です。なんとも言えず可愛いですなあ。

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そこで、我が家の飼い猫もこの様子をチェックに居間へ降りてみると、うわ、絵と同じようにコロリンとひっくり返り、幸せいっぱい、のお顔であります。

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これだけの爆睡状態に陥ると、つんつんつつこうが、撫でまくろうが目覚めません。うーん、無防備の極み。ゆるい、ゆるすぎる。と、思っていると、ムムッ、てな感じで頭を上げ、ごく短時間だけ覚醒するのであります。

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しかし、この状態も数分と続かず、またぞろ深い眠りへと落ちていくもこでした。

あれれ、壁に飾った絵の件が、いつのまにか飼い猫もこのハナシになっちゃいましたね。まあ、いいか。ワタクシも細かいことは気にせず、ゆるゆるでいきます。本日は以上でございます。ちゃおー。


佐野洋子さん著「死ぬ気まんまん」。死ぬことをしっかり考えると、結局、気持ちが楽になるというハナシ。 [本]

他人様には興味ゼロの話でナンですが、ワタクシ、今年(2017年)で55歳になります。四捨五入すると60。どうだあ!と自慢してもしょうがないけど。

55歳ですから、職場(会社)が潰れるか、粗相でクビにならなければ、定年退職(60歳)まであと5年。サラリーマン生活完了までカウントダウンに入ったなあ、と特に感慨もなく思うわけですが、

カウントダウンといえば、シゴトの終わりもさることながら、「死」へ向かっても着実に歩みが進んでいるわけです。

今のワタクシは大病を患っていませんし、当面は自殺の予定もないので〇年後に死ぬ、と明言はできませんけど、ここ数年来の心身衰え曲線を人生グラフ上に外挿すると到底80歳まで生きないだろうし、70歳も無理だろうな、と思う。

出張するとすぐ疲れるし、そうでなくても体が重い(8kg近くもダイエットしたんですがね)。どこでも寝られるのが自慢だったのが最近は自宅でさえ寝つきイマイチ。食生活が乱れると、とたんに胃腸の調子が悪くなる。風邪をひくとなかなか治らない。物忘れも年々ひどくなって、先週は出張先のホテルを二重予約しちゃいました(すでに予約していたことをスッカリ忘れ、別のホテルも予約した)。

まあ、50歳を過ぎれば、多かれ少なかれ「衰え」はみな感じるでしょう。しかし、ワタクシは、せっかちなためか、「ほお、こんな調子で、衰えて、体が痛くなって、病気で死ぬんだな~」と思う。この手の話(自分の死)を始めると、縁起でもないぞお!と一昔前なら一喝だった。しかし、最近は風向きが変わり、必ず訪れる自分の最期と向き合おう、と、「終活」なんつう上手い言葉も登場しましたね。これは良いことであります。

で、なんとなく、「死」を扱ったエッセイ本を、最近、いくつか読んでみました。

テーマがテーマだけに切り口が千差万別でした。一番、いやなタイプは宗教臭の強いやつ。死後の世界がどうこうと、ハッキリ言ってどうでもよい。次に嫌なのは極限まで達観つうか諦念状態に入っているたぐい。ま、死んだ経験のあるヒトなんて誰一人いないから、各人、好き勝手なノリで語って良いんですけど。

さて、ワタクシのツボにはまり、「そうだよ、そう!」と相槌を打ちまくったのがこの本です。

絵本作家、佐野洋子さんの最後のエッセイ「死ぬ気まんまん」であります。

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佐野洋子さんは70歳のとき癌転移により余命宣告を受け、2年後の72歳でお亡くなりになっています。余命宣告からの日々をつづったのが、この「死ぬ気まんまん」。言葉は悪いですが、このエッセイは痛快ですね。

死ぬ覚悟ができた人の手記つうと、悲壮なイメージがあるけど、佐野さんはカラッと、こう書かれています。

「私は闘病記が大嫌いだ。それからガンと壮絶な闘いをする人も大嫌いだ。ガリガリにやせて、現場で死ぬなら本望という人も大嫌いである。」

いや、ほんとそうだ。私もSNSで闘病生活をつづる人の神経がいまいちピンとこない。批判ではありません、だってSNSに何を発信しようと個人の自由だから。有名人の闘病ブログをみて、同じ病で苦しんでいる人が「勇気をもらえる」気持ちは分からないでもない。でも、病気(の苦しみ)なんて、しょせん極私的なもので、苦痛そのものを分かち合えるわけでなし、意地悪に観ちゃうと「不幸の披露(アピール)」じゃん、と思ってしまう。読むほうだって、どうなんでしょう、「〇〇さんって大変そうね。髪の毛、やっぱり全部抜けちゃうんだ。ずいぶん痩せたから、そろそろ死ぬのかな」な~んて大半は、興味本位・好奇心メインではないですかね。

昨今は、ネットでチョイと調べれば「〇〇ガンのレベル〇は5年生存率〇%」とか「化学療法の詳細」などなど簡単かつ無慈悲に医療情報が入手できちゃうわけで、そんな現在、闘病記の意味って果たしてなんだろう?と思ってしまう。

その点、佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」には、ごく素直な日常の怒りや喜びがフツーにつづられてヨロシイと思う。ドケチな友人(?)への今更ながらの恨み節も人間味があってナイスです。笑えるエピソードは、余命宣告を受けてから、ジャガー(外国車)を、どーんと購入するくだり。そう、死ぬときに金を抱え込んだってしょうがありません。私が同じ立場だったらソナス・ファベール社(イタリアのメーカ)の高級スピーカーを買いますけどね。

ワタクシが、一番ツボにはまった文章はこれです。

「私は死ぬのは平気だけど、痛いのは嫌だ。痛いのはこわい。頭がボーッとして、よだれを垂らしていてもいいから、痛いのは嫌だ。」

ハイッ!まったく同感です。ワタクシもじゅうぶん人生は楽しんだ、やりたいことはやった、だから死ぬことは怖くないですが、痛いのだけは勘弁してほしい。モルヒネだか鎮痛剤だかを大量に投与いただき、延命治療なんてしなくてよいから痛くせずに死なせてください。お願いっ!

話は変わりますが、佐野洋子さんといえば、伝説的ベストセラー絵本「100万回生きたねこ」を描かれた(&書かれた)天才作家であります。あの物語には様々な読み方がありますが(それが名作たるゆえんですね)、私は、「なんのために死ぬのかが、すなわち、なんのために生きるかなのだ」と読みました。主人公のねこが、無為に百万回生きるより、ある目的のため(物語では白いねこのため)、最後に一度だけの生を「選んだ」と読めば、佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」はまさに彼女が作品どおり生をまっとうした記録なのだ、と痛感しちゃいます。

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さて、もう1冊。

椎名誠さん著「ぼくがいま、死について思うこと」です。

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日本や世界各国の「死の捉え方」を、お葬式や、埋葬など習慣の違いから明らかにしていく前半から、やがて、椎名さん自身の豊富な体験談、そこから椎名さんの「死に対する考え」へと話は展開します。世界中で冒険旅をしてきて、危機一髪で命拾いしたもろもろのハナシ、辺地ホテルでポルターガイスト(幽霊の一種ですね)に遭遇した件など、それだけでも読み応えがありますね。

さらには、サラリーマンから作家に転身し、馬車馬のように働くうち、うつ病に陥って、ビルから飛び降りそうになった顛末など、「死」に近づいた体験までがリアルにつづっておられます。

このエッセイ、椎名さんは69歳のときに書かれたのですが、さすが文章の名手、と深く納得しちゃいました。「死」という扱いづらいパーソナルなテーマをみごとに深掘りされております。私は、自分が死ぬとき、これ読んで死のう、と思っちゃいましたね。

椎名さんが知己の方々に、死に関するアンケートをとっている最後の章はホッとするというか、いいなあ、と思っちゃいます。私も椎名さんと同様に、死ぬときは「延命治療は拒絶」、葬儀は残ったものの判断にまかせるけど別にしなくても良いや。仲の良い友人たちで「偲ぶ会などやってくれても良い」と思います。

30年も関東に住んでいながら、友達は出身地の北海道(札幌)にしかいないワタクシ。友人代表のカニオ君、私を火葬したあとの灰のほとんどは石狩湾あたりに撒いてほしい(法律的にできないのかもしれないが)。残りチョットの遺骨は(最終的には)家の者や、飼い猫のもこの遺灰と一緒に埋めてほしいです。「偲ぶ会」は、いつもの呑みメンバーを集めて開催をお願いします。居酒屋の天井裏から、皆さんの様子は覗いているよ(怖いわ!)。

・・・などと、自らの死について考えると、結局、気持ちが楽になりますね。もちろん今すぐ死にたいわけではないけど。そのときに向かって、ま、しっかり生きていくことにしましょう、ハイ。


仙台でのハシゴ酒。美味い料理と美味い酒。なんて良い街じゃあ!と改めて感動です。 [宴会、呑み会]

先週末は宮城県仙台への出張でした。東京から仙台までは新幹線「はやぶさ」で、たったの1時間30分。あっという間でございます。鼻先がやけに長~い馬面車両がハイスピードを生み出すのでしょうな。

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仙台駅の東口側、昨年(2016年)改装された東西自由通路を通ると、おや、こんな看板。「杜(もり)の陽だまり ガレリア」・・・おいおい、このネーミング、かっこよすぎないかあ。

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出張は一泊二日。仙台で宿泊なので、夜は、当然のごとく繁華街、国分町(こくぶんちょう)に繰り出します。一人ぼっちが多かった東北出張ですが、今回は若手エンジニアT君が同行しています。だから酒場も寂しくないぞお、てなわけで結果的に、3軒の店をハシゴしちゃったのでした。

まずは1軒目。ワタクシのお気に入りの国分町の居酒屋。あまりにも気に入ってるので店名は書きません。どの料理もめちゃくちゃ美味い。刺身の盛り合わせでございます。

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嬉しそうな表情のT君。

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続いて注文したのは、モツ煮と、アナゴの天ぷら。

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いやはや美味さに震えますな。地方で美味を堪能するたび、ふだん食ってる(食わされている)東京の居酒屋の料理、ありゃあいったい何だ、と怒りがたぎります。言葉は悪いけど、東京のアレは「ゴミ」ですな、ゴミ。

そりゃ金に糸目をつけなければ東京に美味いもんはゴロゴロしてるでしょう。しかし普通の酒場の、普通の値段の料理で比較しちゃうと、仙台の美味さに驚くとともに、東京の「マズさ」に絶望しちゃいます。東京人(東京で生まれ育ったヒト)は味覚レベルが低いから気にならんのでしょうけど、北海道出身のワタクシとしては、本件は東京のダークサイドだと申し上げたい。こんな体たらくで2020年のオリンピックは成功するのか、東京都さん。

失礼しました。ここで鼻息を荒くしてもしょうがないね。東京のマズい料理を俎上にあげても気が滅入るだけだ。得るところがありません。反省。

そう、ハナシを戻しましょう。仙台ですよ、仙台の夜!

酒場1軒目で、東北の日本酒と料理を満喫したT君とワタクシ。河岸を変えようぜえ、と移動を始めるタイミングで仙台在住Mさんが合流します。2軒目はT君セレクトによるワインメインの洋風酒場。これまた雰囲気も品揃えも良く、うーん、やっぱり仙台って好きだわあ、と声が出ちゃう。

いい感じに酔ったMさんとT君の笑顔がヨロシイのです。

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野郎どうしで写真を撮りあうのも寂しいね、てなわけで、女性店員さんを巻き込んで拡大撮影会。ワタクシも参戦させていただきます!ピースサインではなく、男らしく親指をグッと突き立てるぜえ~。

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Mさんとお店のおねえさんの、なんともほんわかなツーショット。

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お店2軒で呑んだくれたこの時点で、打ち止め感が漂ってましたが、T君の発言「仙台に来たのに、まだ牛タンを食べていない!」という余計な(?)一言により、ワレワレはさらなる発展、つまり3軒目の牛タン屋さんへ向かったのであります。

残念ながら酔い過ぎで牛タンの味がよう分からんかった・・・って、そこまでして無理やり行くなよ、と自分たちにツッコミを入れるのであります。以上で、楽しく美味しい仙台のグダグダ呑み会、ハシゴ酒の話は終了。ちゃおー。


常磐線特急「スーパーひたち」の座席ランプに、違和感を持っちゃうワタクシでした。 [雑感]

先週は、福島県いわき市へ出張でした。

いわき出張の移動手段は、JR常磐線「スーパーひたち」であります。品川駅から、いわき駅までを結ぶ特急電車。昨年、車両が一新して快適になりました。

新型車両には、いままでこの路線の車両に無かった新機能が付いたのです。各座席ごとに上部(荷物棚下側)に設けられた「座席状況ランプ」ですね。

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ランプは、赤、黄、緑(青)、と自動的に点灯色が切り替わります。

座席の空き状況で、色が変わるんですね。おお、便利じゃのお。

ランプの恩恵を受ける方は、指定席を買わずに(買えずに)乗った客。ランプ色で「今後も空席なのか?」が分かるのです。逆にいえば、指定席を持った乗客にとっては特に効能はありません。

たとえばこうゆう状況です。急いでいたので指定席を買えず指定席車両に乗ってしまった。車内を見渡すと、どの席もガラガラなので、とりあえず空いている席に座りビールを飲んで寝ていたら、次の停車駅で、その席の予約客が来てしまい、追い出されるように移動。しばらくすると、移動した席にも、次駅で予約客が乗ってきて、またぞろ移動・・・という悲しき車内流浪の旅を、このランプは(一応)解消できるわけです。

で、本日のお題は、このランプの「点灯色」と「意味」の対応に、ワタクシはどうも違和感を覚える、つうハナシであります。

説明が座席テーブルの裏に記載されています(下写真)。

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ランプが「赤色」点灯の座席は、「空席」=座って良い、という意味。

ランプが「黄色」点灯の座席は、「そろそろ指定席を買った方が乗ってきます」=もうすぐ塞がります、という意味。

ランプが「緑色(青)」点灯の座席は、「指定席販売済み(予約済み)」=先約がいるので座れません、という意味。

説明がまどろっこしくて申し訳ありませんが、ワタクシの違和感は、ずばり、

空席を示すランプ色は「赤」ではなく「緑」ではないか?

つまりJRさんの設定とは逆ではないのか?というもの。

私個人のイメージは「赤」とは禁止で、「緑(青)」とは許可。たとえば、交通信号だって「とまれ(進むな)」=「赤」、「進んで良い」=「青」となっていますもん。その考えを敷衍すれば、この座席は空いている(=座れますよ)の表示は、直感的に、赤ではなく、緑(青)じゃん?と思ってしまう。

ちなみにネットでチェックしたら、案の定、私と同じ違和感を持つ方はおられましたね。以下は、JR東日本のHPより。

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議論のポイントのひとつは、この座席ランプって、そもそも「誰のために設けたのか」という点でしょうね。私は「指定席を持っていない乗客」と勝手に思いました。このランプをたよりに空席を探す。だから、「赤ランプ」点灯で「座ってよい」(許可)は妙だよ、と思う。でも待てよ、もしかするとこのランプって、指定券を持った予約客のためなのか?・・・ん??

まあいいや。電機設備の運転/停止を表すランプじゃないから、意味を間違っても感電死するわけではない。点灯色なんて、どっちだって良いのでしょう。すくなくとも座席情報を提供しようというJRさんの前向きな姿勢、心意気は、ありがたく思うわけです。(私は指定席を買ってから乗るので、今のところ恩恵にあずかっていないですが)。

たぶん今後も、座席ランプを見るたびに小さく違和感を持ちつつ、スーパーひたちを使わせていただきます。

以上で、お終いっ。


ゾンネンシュターンとセラフィーヌ・ルイ。作品をまじかで観たいとワタクシが切望するふたりのアーチスト [絵画]

前回の記事(2017年2月2日)でアウトサイダーアートの代表格アドルフ・ヴェルフリさんの展開会について書きました。今回はその続きです。ワタクシがぜひとも作品の「実物」を観たいと切望するアウトサイダーアート画家2名について書きます。

ところで、アウトサイダーアート(アールブリュット)とは何か?知ったかぶりして記しますね。ゲージュツ界というのは諸事情からアーチスト(作品)を分類せねばならないようです。たとえば「印象派」「野獣派」「立体派」「ラファエル前派」など。これらは作品に共通の思想や傾向があるので良いですが、個々の作風があまりに独創的だと分類自体が困難ですよね。そこで同時期にパリにいた異邦人を「エコール・ド・パリ」とくくってみたり、分類側の能力を超えてしまうと「ポスト・モダン」なんつう無茶苦茶なネーミングさえ登場します。

では、アウトサイダーアートとはいったい何でしょう?これまた無茶ネーミングの一例といえましょう。

もともとはアール・ブリュットというフランス語で、「生(き)のままの芸術」という意味だそう。それを英語に移し替えるときにアウトサイダーアートなる語をを当てたようです。一般には、正規の美術教育を受けていない、あるいは教育を放棄した「シロウト」の手になる作品です。作風に共通性はないわけですね。時代も国も関係なく、突拍子もないものをシロウトが描いちゃったので、とりあえずアウトサイダーの芸術に押し込めちゃお、てなノリですね。

ただ、不思議な共通点として、美術史に名を残すアウトサイダーアートの作家(画家)は、精神病院や施設に収監されたことをきっかけに、そこから絵画に目覚めています。こうした例が「アウトサイダーアート=精神に障害のある人の絵画」という刷り込みにつながった面がありますね。

正確な定義は別として、ワタクシの考えるアウトサイダーアーチストとは、精神の障害とは無関係に「絵画教育を受けなかったがゆえ、周囲の動向に頓着せず、ひたすら無為かつ独自に内面世界を掘り下げた画家」と考えています。

うわ、例によって前置きが長くなったぞ。本題「ワタクシが愛するふたりのアウトサイダーアーチスト」を書くこととしましょう。

まずひとりめ。ドイツの画家フリードリヒ・シュレーダー・ゾンネンシュターン(1892~1982)であります。この方、若い頃はずいぶん素行が悪かったようです。1915年(23歳)で精神病院に収監。退院後に犯罪に手を染めたりで、精神病院へ逆戻り・・・。あれ、やっぱり精神病院がからむのね。アウトサイダーアート=精神障害者の絵画、という刷り込みは前回記事のヴェルフリさんと、このゾンネンシュターンさんに因るところ大ではないか?

彼の作品です。一言で言えば、幻想的でエロティック。奇妙で独創的なアイディアはどこから降ってきたのか?

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でっぷりした裸体の女、不気味な笑顔、奇妙な動物(極端にデフォルメされ生物とも言いがたいが・・・)、渦巻き、鞭のようにしなる曲線、涙型のしたたり、など彼独自のモチーフが繰り返して描かれます。

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私が初めてゾンネンシュターンという名を知ったのは、30年くらい前でしょうか、澁澤龍彦御大の著書「幻想の画廊から」でした。その本に、スエーデンのスワンベルクさんなどと並んで、ゾンネンシュターンさんが御大の絶賛を浴びているのでした。澁澤センセイに迎合するわけではないが、あまりにヘンテコ、だけど、すごい吸引力があるこんな画家もいるのかあ~と驚いた次第です。

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色鉛筆で描かれている点も、なんとなく親近感がわきますね(と、あまりにもシロウトな発言で失礼)。

ファンタジックというより気色悪さが目立つこうした作品は、日本人好みと思えませんが、ぜひとも日本でゾンネンシュターン展は開催してほしいもの。関係者の皆さま、よろしくです!

さてふたりめのアーチストです。フランスのセラフィーヌ・ルイ(1864~1942)であります。美術教育どころか、ふつうの教育もまともに受けておらず、下宿の使用人として掃除、洗濯、家事を行っていた女性。趣味というより日常からの逃避行動でこっそり描いていた花の絵が、下宿人である画商の目にとまり「作品」が世に出た・・・と、こうゆうわけです。

悲しいことに、絵が認められ称賛を得つつあった彼女、個展開催の計画が進んでいたタイミングで、第一次世界大戦が勃発します。応援していた画商は国外へと去り、個展も頓挫。セラフィーヌさんは精神を病み、精神病院へ収監。・・・と、ここでも病院が出ました(ただし、セラフィーヌさんの絵画は、入院前に描かれたものだそうです)。

彼女の作品です。鮮烈な色。圧倒的な量感。内側から湧き出るエネルギー。この迫力はなんだ。絵画教育を受けた画家の静物画にあり得ない「デッサンなんぞをぶっ飛ばした生命感」がみなぎっているんですね。

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セラフィーヌさんの絵には遠近法や、(美術教育でいうところの)構図という概念は希薄です。心から湧き出すままに自由奔放に花を描いた印象です。

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作為のない、描き手の世界感まんまのイノセンスが観る者の心を打つのでしょう。こうなると、「美とは、そもそも何か」というギリシャ哲学の命題に行きつくかのよう。うーん、今日のオレ、ちょっと背伸びしてムズカシイことを言ってみたぜ。

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セラフィーヌさんの作品、ヨーロッパの評価はわかりませんが、日本では評価以前の無名状態と思います。ゾンネンシュターンさんよりも展覧会開催ははるかに難しいと思いますが、美術館の学芸員の皆さま、ぜひとも展覧会開催の検討をお願いいたします!お願いっ!

最後にセラフィーヌ・ルイさんの生涯を描いた2008年の映画「セラフィーヌの庭」の予告編を貼り付けておきますね。予告編を観ただけでジーンときちゃうのは、ワタクシの思い入れが過剰なせいでしょうか。はい。


「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」展を、兵庫県立美術館で拝見したハナシ。 [絵画]

兵庫県立美術館で、2017年1月11日~2月26日に開催している展覧会、

「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」

に行ってきました。数か月も待てば東京でも開催されますが、ワタクシ、兵庫県立美術館(神戸)が大好きなので関西出張ついでに寄った次第。ちなみにこの美術館、立地や建物も素晴らしいけど、比較的、客が少ないのが最大の魅力ですね(失礼)。

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さて、アドルフ・ヴェルフリ、なる名前を聞いて「あ、あの画家ね」とピンとくる方は、かなりの美術ツウ、それもマニアックと申せましょう。ヴェルフリ(1864年~1930年)はスイスの方。正規の美術教育を受けていない全くのシロウトです。31歳で精神病院に入院して、以降、66歳で亡くなるまでを、そこで過ごしたのです。

彼の「作品」はすべてその精神病院で描かれました。要するに治療の一環として、医者から鉛筆や紙を与えられたのをきっかけに、独創性と絵画への熱意が開花したわけです。似たケースとして、ユトリロ、山下清さんやゾンネンシュターンを連想しますが、ヴェルフリさんの場合、際立って凄まじいのは「物量」なのであります。

その作品数は、な、なんと、全45冊、25000頁という圧倒的な量を誇ります。

ちなみに彼が精神病院で創作したのは単なる「絵」ではなく「物語」なんですね。主人公(自分自身?)が世界中を旅し、さまざまな人物や事件に遭遇する奇想天外なドラマ。それは想像(妄想)の域をこえた幻視ですらあります。まあ、晩年になるとストーリー性は失われ、類似単語の延々たる羅列になり、それはそれで怖いわけですが・・・。

今回の展覧会で70点を超える作品が展示されています。それらを観て、ワタクシは背筋がザワ~ッとしましたね。画面を覆いつくすほどに、文様とも記号ともつかぬパターンが詳細かつ綿密にビッチリ描きこまれているからです。作品発表の意図もなく、自らの欲求のまま、新聞紙サイズの質の悪い用紙に、似ているようで似ていない膨大な絵(記号)を描きこんでいく無為の作業。彼には、徒労感など無かったのでしょうか。

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飽くことなき執念の産物は、底知れぬ「創作欲」の賜物か、あるいは狂気を通じて到達できる「ヴィジョン」なのか・・・ううむ、これは奥が深いテーマですなあ。

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ぼやけた印象派絵画なんぞをノホホーーンと眺めても、こうした眩暈(めまい)のようなトリップ感には、絶対に到達できないでしょう。

この凄みこそがヴェルフリさんをアウトサイダー・アート(アール・ブリュット)の雄、と言わしめるゆえんでしょう。

作品を売る戦略だの、他との差別化だのに汲々とする「狙って作るアーチスト」たちが世間にはあふれております。彼らは、恣意そのものがスッポリ抜けきったヴェルフリ作品をどう思うのか?興味がありますね。ダミアン・ハーストさん、シンディ・シャーマンさん、村上隆さんなど偉大なアーチストですけど、言い方を変えれば、彼らの作品は「けれん味たっぷり」ですもんねえ(だから良い悪いというハナシではないが・・・)。

「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」展、良かったなあ~。東京に巡回したら、もう一度、行っちゃおうかな。

以上でお終いっ!と、言いたいところですが、蛇足的に次回の記事の予告です。

アール・ブリュット(アウトサイダー・アート)の話題が出たので、次回は、展覧会を開催してほしいお二人の画家(シロウトさん)について書きます。

ひとりは、当ブログでも取り上げたセラフィーヌさん(ブログ記事は→ここ)。フランスの家政婦で、強烈な花の画を描きます。彼女の生涯は映画「セラフィーヌの庭」にもなりました。そして、もう一人はヘタウマ幻想系(言い過ぎかな)のゾンネンシュターンさんであります。記事を書くのが、今から楽しみだなあ。ふふふのふ。