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突然ですが、大好きなジャック・プレヴェールの詩であります。二度目の掲載はご勘弁を。 [本]

先日。過去にない展開で、酒場で「詩」が話題になったのです。同席キコクシジョ女性が、驚いたことにランボー(シルベスター・スタローンではなく詩人)の詩をフランス語でそらんじたうえに、彼女なりの和訳バージョンまでご披露する国際派ぶりを発揮。

非グローバルで日本ドメステッ子なワタクシ、ここで中原中也や谷川俊太郎さんの詩で対抗すればカッコよかったでしょうが、ブンガク素養のないうらみで、どの詩もうろ覚え。到底、勝てっこないわ(勝ち負けかよ!)。こんな不測の事態に備え、ウイリアム・ブレイクかポール・エリュアールの詩くらいは、脳内に仕込んでおかねばなるまいナア・・・。

さて、その件がきっかけ、とまで申しませんが、本日はワタクシが愛する詩を紹介です。実はこの詩、8年前にもブログにアップしており、二番煎じどころか、まんま前回記事のコピペですわ。ははは。しかし好きなものは好きなんだ。

ジャック・プレヴェールの「セーヌ通り」です。この詩には切実なドラマがある、と思う。もちろんダンテやバイロンのドラマ性はなく、もっと卑近で、だが、それゆえにリアルで映画的です。こうゆう詩が好きなのです。そうか、ジャック・プレヴェールさんは映画の脚本家でもあったのでした。

余計な説明は、そろそろやめましょう、以下がその詩であります。


セーヌ通り 

       ジャック・プレヴェール作/小笠原豊樹訳

セーヌ通り

午後十時半

別の通りとの交差点

ひとりの男がよろめく・・・・・若い男だ

帽子と

レインコート

ひとりの女が男をゆすぶる・・・・・

ゆすぶって

話しかける

男はじぶんの頭をゆすぶる

帽子はひんまがり

女の帽子もうしろへずり落ちそう

二人とも真っ青

男は明らかに立ち去りたいのだ

消えたい・・・・・死にたい・・・・・

だが女は生きたいと烈しく願う

その声

ささやく声が

いやでも聞こえる

それは哀願・・・・・・

命令・・・・・・

悲鳴・・・・・・

一心不乱の声・・・・・・

悲しい声・・・・・・

いのちの声・・・・・・

冬の墓地の

墓石の上で震える病気の赤ん坊・・・・・・

ドアに指を挟まれた人の悲鳴・・・・・・

唄の文句

いつも同じ文句

繰り返される

文句・・・・・・

とめどなく

返事もなく・・・・・・

男は目を向ける 女を見つめる

溺れる人のような

腕のしぐさ

すると文句が戻ってくる

セーヌ通り 別の通りとの交差点

女はつづける

あきもせず・・・・・

包帯で包めない傷

不安な質問をつづける

ピエールほんとのこと言って

ピエールほんとのこと言って

わたしすべてを知りたいの

ほんとのこと言って・・・・・・

女の帽子が落ちる

ピエールわたしすべてを知りたいの

ほんとのこと言って・・・・・・

愚かな質問だ 気高い質問だ

ピエールはどう答えたらいいかわからない

途方に暮れる

ピエールというこの男・・・・・・

笑顔をつくる じぶんではやさしい笑顔のつもり

そして繰り返す

なあ 落着けよ どうかしてるぜ

だがうまく言えたかどうか心許ない

男には見えない

見ることができない

微笑にひきつれた自分の唇・・・・・・

男は息が詰まる

世界がのしかかってきて

息を詰まらせる

男は囚人だ

いろんな約束に追いつめられた囚人・・・・・・

世界は清算を迫ってくる・・・・・・

男の正面にいるのは・・・・・・

機械だ 計算する機械

機械だ 恋文を書く機械

機械だ 苦悩する機械

それが男を捕え・・・・・・

男にしがみつく・・・・・・

ピエールほんとのこと言って。


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札幌で、「アントン・チェーホフの遺産 ≪サハリン島≫2017」展を拝見したハナシ。 [本]

北海道出張のさいに、札幌である展覧会を拝見しました。2017年9月9日~11月19日、中島公園内の北海道文学館で開催中の

「アントン・チェーホフの遺産 ≪サハリン島≫2017」展、であります。

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ロシアの文豪アントン・チェーホフさん(1860年~1904年)については、当ブログで何度か取り上げております。そう、ワタクシは、チェーホフさん(の小説)にぞっこんで、そのことをご存じの友人Aさん(札幌在住)が、このイベントを私に教えてくれた次第。これが北海道文学館です。

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ポスターから分かりづらいですけど、この展覧会はチェーホフさんが1890年に敢行したサハリン紀行にフォーカスした企画です。北海道出身のワタクシは、サハリン島と聞けば「ああ、樺太ね。」とピンときますが、きょとんの方もいると思うので地図をつけておきます。北海道の北にあるロシア領の巨大な島のことですね。

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チェーホフさんは、24歳でモスクワ大学の医学部を卒業して医師となり、28歳には小説を評価されて最年少でプーシキン賞を受賞する、エリートかつ俊英なのでした。

その彼が、なんの動機か、30歳でモスクワから1万kmも離れたサハリンへと向かったんですね。当時はシベリア鉄道もなく、流刑地サハリンは、文字通り「地の果て」だった。約3か月の苦難の移動をへて、目的地へ到着したチェーホフさんは、各地のレポートだけでなく、1万件の住民調査という執念の仕事を成し遂げています。

医師で文学者の彼が、なぜそこまでの情熱をサハリンへ傾けたのか・・・疑問は展覧会で判明するどころか、過酷な現地状況を示す展示物をみるほど、深まっていくのでした。

チェーホフさんが訪れた街の、当時の様子と、現在の写真の比較展示は見応えがありました。さらにサハリンに関わりのあるロシア芸術家の作品や、日本の作家のサハリン関連本も紹介されていて、イベント企画スタッフの努力とご苦労に敬服しました。

そういえばワタクシ、チェーホフ好きを自称していながら、著書「サハリン島」は未読でした。チェーホフさんとルポルタージュの組合せが、私の中でしっくり結びつかなかった故ですが、今からでも読まねばなるまい!

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最後にひとつ。他人のミスをみつけ、鬼の首でもとったような言動は嫌いですが、本展覧会の展示の「間違い」について書きます。

展示室の壁にかかったチェーホフさんの「サハリン島」の原稿(複写)が、上下さかさまに掛けられていたのです。これは正しい向きのその原稿。

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間違いに気づいた理由は、文章をしっかり読んだからではなく、一行目の数字「1890」です。それが、さかさまだったから。この箇所ですね。

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もちろん、このことは係員の方に伝えて、すぐに正しい向きに掛け直していただきました。私が会場に行ったのは、イベント初日でもあり、たいしたハナシじゃないかもしれません。でも、展示は、もうちょっと注意深くやってほしい、と思う次第です。シロウトの私でさえ、気づくようなミスは、いけませんね。

こんなことを書くのは、最近、展覧会やコンサートの会場で、あまりにずさんな展示や表示を多く見るからです。たとえば、今年前半、八王子の富士美術館の某展覧会では、アートショップで、恐ろしいことに、画家の名前を取り違えていたのです。多少でも美術が好きなら、間違えようもないキスリング作品に、違う画家名をぶらさげていた!このときも、即座に指摘して修正してもらいました。

エラソーになりますけど、お金をとるイベントなら、展示するひともプロとしてしっかり仕事をしてほしいと思います。

・・・と、せっかくの良いイベントへの記事が、最後にネガティヴ苦言になってスイマセンーーー。ちゃんちゃん。

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リディア・アヴイーロア著 「チェーホフとの恋」。回想録ですが、これって事実なの?と疑いたくなるドラマチックな面白さ。 [本]

札幌在住のAさんが、ワタクシに本を貸してくれました。めっぽう面白かった!それが

リディア・アヴイーロア著 「チェーホフとの恋」であります。

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私が、ロシアの作家チェーホフを好きだと知ったAさんが勧めてくれたのです。

著者リディア・アヴイーロアさん、お名前初耳でしたが、チェーホフと同時代の女流作家だそう。リディアさんは既婚者ですがチェーホフへ恋心を抱き、いっぽうチェーホフさんも彼女に対し、まんざらでもない・・・ような・・・と煮え切らずイライラさせるところが文学者のテクニックか?

出版元の未知谷さんのHPに、本書が紹介されています。端的にまとまっているので以下、HPより抜粋です。

<1889年の出会いから1899年の別離まで、10年間のプラトニックな愛憎劇。家庭人でもある女流作家が、手紙と回想で綴る濃密な恋。あまりの面白さゆえ単なる創作ではないかと評された時期もあるが、現在では44年の生涯で唯一真剣と言われるチェーホフのもう一つの真実を伝える作品と評価されている。>

さすがプロのライターは違う。的確に本書のツボを示しています。

そうなんですよ。「あまりの面白さゆえ単なる創作ではないか」という疑念は、読みながら私も感じました。プラトニックとはいえテーマは人妻と小説家の「あいびき」つまり不倫ですね。ところが本著には、昨今の芸能人不倫のゲス的ドロリ感は皆無であり、気持ちよいほどの純愛ストーリーなんです。周囲にいろんな出来事が目まぐるしく発生するので、小説的というか映画的というか。

たとえば著者(リディアさん)がチェーホフの真意を測りかね、やきもきしたり、すねたりする前半は、みごとに青春ドラマの体であります。話が進むと、行き違いばかりで二人がなかなか会えない状態が続き、やっと会えたとき、彼は病の床・・・こうした山あり谷あり展開は、韓流恋愛映画の常道ですもんね。さらに「ロミオとジュリエット」の神父さんよろしく、惹かれあう二人を応援する助っ人的キャラまで現れて、着実にドラマを盛り上げます。ハイライトは、チェーホフの戯曲の上演初日、観客席にいるリディアさんだけに分かるメッセージを、チェーホフがセリフに忍ばせるシーン。おいおい恋愛下手のふりして、なかなか粋じゃん、オジサン!文学を理解しあう者どうしが、文学を介し心を通わせる最高にドラマチックな場面です。ワタクシ、涙腺がゆるみウル~ッとしちゃいました。

語り手であるリディアさんの「脚色力」によるところも大きいですが、ほんと、これ映画化したい。良くできた恋愛ストーリーなのであります。

無駄に話が長くなってすいませんが、本著で、ワタクシが最も驚いたエピソードについて書きます。

チェーホフは1897年に大喀血して緊急入院します。それを知ったリディアさんが病院に駆け付けます。二人の悲しい再会シーンは感動的・・・ですけど、驚いたのはそのあと。リディアさんが病院を出て道を歩いていると、偶然にトルストイに出会うんですよ・・・えっ?トルストイ?「戦争と平和」の著者、ロシアの文豪ですか!?リディアさんが、チェーホフが入院したことをトルストイに教え、トルストイは翌日、律儀にチェーホフのお見舞いにいく・・・と、こうゆう流れです。

どうでもよい話に思えるかもしれないが、トルストイは1828年生れ、チェーホフは1860年生れですから、32歳もトルストイが年上。そんな二人が知り合いで、さらにトルストイはチェーホフ(の小説)を高く評価していた、と知ってビックリでした。だって作風がまるで違うんですから。ちなみにお二人が一緒に写った写真も残っていたんですね(下)。

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ただしワタクシが一番驚いたツボは、「リディアさんが道で、『偶然に』トルストイに会った」という事実そのもの。あの広大なロシアで、ですよ。あまりに話が出来すぎ、つうか。。。ま、「事実は小説より奇なり」という言い古された言葉もありますしね。ケチをつけてはいけません。

回想録にしては面白すぎる「チェーホフとの恋」、読み始めたら止まらず一気に読み切ってしまいました。Aさん、本を貸してくださってありがとうございました!

ところで(とまだ続くんかい)、ごくごく冷静に考えると、チェーホフというオッサンは困ったヤツだと思う。もしも彼がリディアさんに恋していたなら、言動は優柔不断な噴飯ものだし、逆にもしも彼がリディアさんに恋心がないとしたら、思わせぶりな言葉で女をたぶらかす食わせ者、と言えましょう。どっちにしてもアンタは悪いっ!

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椎名誠さんの痛快エッセイ「殺したい蕎麦屋」に大笑い。私も殺したい〇〇屋を思い出しました。 [本]

出張移動のヒコーキのなかで、この本を読んでバカ受けしちゃいました。

椎名誠さんのエッセイ集「殺したい蕎麦屋」であります。

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本のタイトルでもある、殺したい蕎麦屋がなんといってもケッサクです。椎名さんの憤りに、そうそう!と同意の声が出ちゃいますもん。

彼は何に怒っているのか?蕎麦屋に対して、です。もちろん世間すべての蕎麦屋が矛先ではありません。東京都心あるいは蕎麦自慢の地方にある「勘違いの店」が俎上に上げられます。

殺意を起こさせるパターン1は都心の、やたら値段が高いわりに、蕎麦はチョッピリという高級店。お前に蕎麦が何が分かる!と言われればそれまで、とエクスキューズしたうえで、それにしても、と椎名さんは憤ります。ヒトとのつきあいで仕方なく入った店は、BGMがヴィヴァルディ(!)、そんな蕎麦屋があるか、と嫌な予感がする。一番安い、せいろそば1260円を注文すると、数えるほどしか、そばがなく(ざっと見て20本!)どんなにゆっくり食べても2分もかからず食い終わる。

椎名さんは本数20で、1260円を割り算し、そば1本が63円、この麺3本で駅の立ち食いソバが1杯食えるぞ!と不毛な算術をして殺意をたぎらせるのでした。わかるなあ、その気持ち。これは殺したい蕎麦屋に認定必至ですね。

パターン2。そばが名産の某地方の勘違い店です。蕎麦のつけ汁が、麺つゆではなく、なんと「水」。店主いわく蕎麦の風味を味わうなら、つゆではなく水が一番と!まさに阿呆、バカヤローの極みですな。

蕎麦屋以外の、某イタリア料理店(都内)へも怒りがさく裂です。真夏にビールを注文すると、常温の生ぬるいビールが供され、店員が「本場ですから」とうそぶく始末。冷えたビールはないのか!何が本場だ、ここは日本だぞ、イタリアじゃないぞ!と、あまりにも、もっともなお怒りであります。

いやあ、椎名誠さんのキレのよい文章も手伝って、おおいに笑わせていただきました。オチも最高です。

で、ここからはワタクシの体験談。椎名さんに便乗するようですが、私も数々の「殺したい〇〇屋」に遭遇してきました。思い出すだけで腹立ち殺意がわく。そんな殺したい〇〇屋とは!

(1) 殺したい蕎麦屋

椎名誠さんのおっしゃるとおり。蕎麦屋には「殺したい」という言葉がよく似合います。私の場合は、銀座の老舗蕎麦屋でした。盛りそば850円(←けっこう高い)を注文すると、店のおばちゃんが「1枚でヨロシイですか?」と聞いてきます。え?フツーひとりが食べるそば、って1人前(1枚)でしょ?映画「ブレードランナー」じゃないんだから・・・。ほどなく出てきたそばを見て仰天しましたね。850円の盛りそばの量は「半人前」いや「1/3人前」なのです。お子様ランチかあ、つう微量です。よーするに、この店で、大人が満足するには最低2枚はオーダーせねばならない。すなわち1人前=2枚=1700円(!)。バカたれがあっ!と叫びそうになりましたね。ちなみに、怒りで舌も拒否反応をおこしたのか、蕎麦の味はイマイチでしたぜ。

(2) 殺したいステーキ屋

誰がなんと言おうと、ワタクシ、焼肉やステーキはすくなくとも表面はジュージュー熱く焼いていただきたい。しかし、東京丸の内、某ホテルビルの最上階の店。ワタクシの希望を鼻でせせら笑うかのような殺したい店でした。調理人がカウンターの内側の大鉄板で焼くステーキ。下写真の半球型カバーなんぞを使って、しかし、いつまで待たせるんだよ?つうくらい長時間じらせた挙句に、出てきたステーキがめちゃくちゃ生ぬる~い、のであります。ギャア、とわめきそうです。

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敵(店員)は、高級肉だからあえて低温でじっくり調理しました、と自慢げに反論するに違いない。しかし、ワタクシは怒りが頭を支配し、高級肉とやらの味は、まったくわかりませんでした。

(3) 殺したい焼き鳥屋

それは東京の神田にありました。古びた店構えには不吉な予兆はあったのです。メニューをみると焼き鳥(正肉)の値段がかなり高い。メニュー脇のボードには、〇〇産の地鶏のみ使い、エサに気を使い、云々と自慢話が書かれています。まあ、きっと旨いんだろ、と注文した焼き鳥をがぶりと食べ「うはあ」と思いました。肉表面が炙られている程度で、中心は生なんですね。もちろん調理ミスではなく、健康な地鶏だから生でも食える、だから、あえて軽く炙っているのでしょう。

そうゆう焼き方が好きな人もいるだろうけど、私は、火を通したほうが美味いと感じるタイプなので、店員さんに「申し訳ないが、焼き直してもらえませんか?」とお願いしました。するとどうでしょう!クソババア(と言わせてもらう)店員は、「うちの肉は生でも食える!それが一番旨いのだ!」と、お前の話など聞く耳もたん、という傲慢な態度。最後は大げんかになり、ふざけんな!バーカー!と言い放って店をあとにしたワタクシです。ああ、殺したい殺したい。

(4) 殺したい居酒屋

昨年末、仙台での出来事です。一軒目でそこそこ食べたので、二軒目で仕上げに軽く日本酒を呑むか、と国分町をさまよい日本酒の品揃えをアピールする居酒屋へ入店。そこに「殺したい」店長がいたのであります。

壁の板に書かれた日本酒をオーダーすると、店長はこう言ってきたのです、「そんな注文の仕方ではなく、好みの味を言ってくれ」。え?そこに書かれてる酒はないの?と聞くと「あるなしではなく、好みを言ってくれたら銘柄はオレが選ぶ」と上から目線で言ってくる。おい、なんだよ、それ。客が酒を選べないのかよ。

まあ、いいか。日本酒通だろうから、おとなしく従うかと気を持ち直し、「辛口だけど、しっかり濃い味がある酒を冷やで」と伝えると、アナタ、信じられますか。出てきたのは、すっかり気の抜けたような輪郭のぼんやりしたサイテー酒ですぜ。グツグツと煮えたぎる怒り気分。いや待て、ここで怒ってはいけない、と冷静を装い、酒は諦め料理でいこう。お勧め料理を店長に尋ねると、アナタ、信じられますか。お勧めは「野菜」だという。野菜ですよ、野菜。仙台なら海鮮、ほやとか牡蠣とか、あるいは牛タンとか・・・ま、ここは我慢、我慢。

勧められるままに「蒸し野菜」を注文。そしたらアナタ、信じられますか。包丁で野菜を切る店長の手つきが、どうみても、料理人のそれではなく、ふだん母親に料理を任せっぱなしにしている小学生が、昨日初めて包丁を持ちました、という体の拙い手つきなのである。かぼちゃを切るときなんて、見ているこっちが怖くて怖くて。包丁とまな板がバキーンと大きな音でぶつかるに至り、もう、どうにでもして、という感じ。

予想はついてましたが、この「蒸し野菜」の不味いこと!絶対にオレが作ったほうがまし、という極低レベル。いやあ、この店は「殺したい居酒屋」というより、「日本国民のために殺しておくべき居酒屋」と言えましょう。

いやはや、ひどい店はどこにもある!繁華街には毎夜毎夜、殺意が満ち満ちているのであります。


ハナシは変わりますが函館や唐津の名物「(朝どれの)活イカ」ってどう思います?コリコリとした食感がサイコーとかいうけど、私は全然、美味いと思わない(お好きな方、すいません)。イカの旨み、というか、味がほとんど無いもん。刺身は新鮮が一番という幻想に捕らわれてませんかね。水揚げしてから時間が経ったほうが、身が柔らかくなり味が出る素材(まさにイカ)もあるわけです。獲れたてだからって、本当に美味いと思うかね?と批判的にみてしまう。あまつさえ、うねうねと動く脚を食べて、吸盤が舌にくっつくうなんて喜んでいるヤツは、はっきりいって変態ですな。・・・と失礼を書き連ねたので、ごめんなさい、と謝って今日はお終いっ!

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宮沢賢治さんの「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」を再読。 [本]

札幌に住む友人Aさんが「これ、読んでみて。」と、一冊の本を貸してくれたのです。

Aさんが過去に貸してくれた本はパトリック・ジュースキントの「香水」「コントラバス」をはじめ、ワタクシのツボにはまるのが常であります。その点で、ワタクシは彼女をおおいに信頼しているのです。さて今回、Aさんからお借りした本とは。

「宮沢賢治コレクションⅠ」。え?宮沢賢治?

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なぜ今、宮沢賢治・・・。雨にもマケズ風にもマケズ。いえ、あっという間に負けている私ですけど。

本の発行日は2016年12月。お、昨年の新刊ではないか。さすが筑摩書房さん、宮沢文学をいまでもしっかりフォローするのねえ、と、よく分からん感心をしちゃうのです。

「コレクションⅠ」と銘打つからには今後、「Ⅱ」「Ⅲ」が発刊されるのでしょう。で、「Ⅰ」には、のっけから有名どころの「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「風の又三郎」が惜しげもなく収録されているのです。

懐かしいなあ。読んだのは小学校のとき、正確に1973年。44年前(!)だ。

それほど宮沢賢治を愛していない(=世間が言うほど良いとも思っていない)ワタクシですけど、Aさんのお勧めということで読み始めました。

「風の又三郎」。そうそう、こんな話だったなあ。都会からやってきた転校生と、田舎の子供たちのふれあい。ふむふむ。(あまり食いつけない)

そして「銀河鉄道の夜」です。日本国民なら、存在は必ず知っている名作(と言われている)。でも、私は全然、覚えてませんでした。どんな話だっけ?SFファンタジーだっけ?

まあいいや、と読み進んでいくと。。。ううっ、うぐぐう。こ、これは・・・。最後の一行を読み終わったワタクシ、頭がジーンとなり、ぽろぽろ涙を流してしまいました。

銀河鉄道の夜、ってこうゆう話だったんだ。童話口調で書かれているけど子供が読んでわかるのか。いや、分かる子供もいるのだろう。でもジョバンニ(主人公)と旅をするカンパネルラや少女の言動は、大人だからこそ胸に刺さるのではないか。子供は「しあわせとは何か」なんて考えるのでしょうか(少なくとも、作品に登場する人物たちのように)。44年前のワタクシには全く分かっていなかったです。55歳の今のワタクシだからこそ「銀河鉄道の夜」で語られる言葉や行いを、ああ、そうかあ、と共感できるわけです。

燈台守のこの言葉。 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」・・・うーん、泣ける。

そしてハリウッド映画の宣伝文句みたいだけど、衝撃のラスト、この破壊力はなんなのだ。ファンタジックな美しい物語を貫いていた太い芯が「自己犠牲」であり「博愛」と分かり、ポロポロと涙が出ちゃうわけです。いやあ、どっかの国の大統領に読ませたいねえ、まったく。

おっと、銀河鉄道への感想が長くなりました。しかし、この本のなかで私の大好きな作品は、なんたって「セロ弾きのゴーシュ」です。小学生の時に読んだ記憶とまさに同じでした。オーケストラ団員でいつも指揮者から怒られるヘタッピなセロ(チェロ)弾きのゴーシュ。彼が、夜中に家で練習していると、いろんな動物たちがやってくる・・・とまあ絵本にピッタリの題材だけど、なんともいえない良い感じ。良い味。これって、なんなんだろう。

コンサートが大成功した夜に、ゴーシュが空に向かってつぶやく最後の言葉。ワタクシ、またもポロポロ、涙を流してしまいました。この話じゃ泣かないだろ!と言われたって、かまうもんか。

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結論。

宮沢賢治さんは良い。あまりに有名、あまりに世間で高評価、あまりに東北観光の色が感じられ・・・で、なんとな~く天邪鬼的に再読してなかったけど、本当に素晴らしいと思いました。

やはりAさんの貸してくださる本はツボを外しません。ありがとうございました!


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南伸坊さん著「本人伝説」「本人遺産」。爆笑必至の本人術には、ただ感服するばかりです。 [本]

本日は、2冊の本をとりあげます。

南伸坊さん、文子さんご夫妻による「本人伝説」(2012年)と「本人遺産」(2016年)であります。

いやあ、驚きました。イラストレーター南伸坊さんが、顔真似名人ならぬ「本人術」の名手なのは重々承知していました。しかし齢60を過ぎてなお、求道士のごとく、たゆまぬ研鑽をつみ、結果、あまりにバカバカしい進化と成長を遂げていたとは驚きモモノキ(古っ!)と言わざるをえません。ワタクシ、今回ばかりは自分のアンテナの低さ、不勉強を恥じ入る次第であります。はいっ。

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・・・と唐突に熱く語っても、なんのこっちゃ?とポカン状態の方へ、本作のツボをご説明しましょう。思いっきり手抜きして、「本人伝説」文庫本の裏から抜粋します。

「自らの顔をキャンバスに見立て、究極の似顔絵を描いてみせる南伸坊の『本人術』。政治家では安倍晋三、バラク・オバマ、スポーツ界では浅田真央、ダルビッシュ有、さらにダライ・ラマやジョブズまで・・・(後略)」

要するに、南伸坊さんがカツラ、衣装、化粧、表情の変化、ときにはアクションを駆使して有名人「本人」になりきり、そのポートレイトを奥様の文子さん(カメラマン)が撮影した写真集なんですね。

掲載された「本人」写真の数々に、あ、似てる、似てない、などと真面目に反応してはツマラナイ。ページをめくるたび、バカバカしさに大笑いすればよいのです。なんとラクチンな読書(?)であろうか。中学生、高校生の諸君、宿題に読書感想文が課されたら、ぜひとも、この2冊をチョイスください(確実に先生からは怒られるだろうけどネ)。

そもそも、オニギリ顔の南伸坊さん、ですよ。石川遼、錦織圭、堺雅人もヒドイけど男性だから百歩譲って許しましょう。しかし異性(女性)のベッキー、滝川クリステル、浅田真央、蓮舫、壇蜜・・・となると暴挙を超えて、もはや狂気の沙汰であります。とはいえ、その行為(心意気)だけでも、がははは、と大笑いできる点が本人シリーズの素晴らしさですねえ~。

「本人伝説」より、松田聖子さん(になりきった南伸坊さん)。プッ。。。

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「本人遺産」より、トランプ大統領(になりきった南伸坊さん)。ププッ。。。

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さらなる「本人」を観たい方は、本屋さんやamazon等で「本物」の本をご購入して、堪能くださいまし。

以上で、今日のブログを終わろうと思ったら、おお、そうだ。ここ数日間(2017年2月中旬以降)、ずーっとトップニュースになっている事件の「あの方」を伸坊さんは4年以上前に、本人術の対象にしていたんですね。どーん。

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マレーシアで暗殺されるとは・・・という事件にめげず、伸坊さん、これからもバシバシ「本人」になって世間に明るい笑いを振りまいて下さいっ!よろしくですーー。

ちなみにワタクシが、伸坊さんの本人術で、もっとも衝撃を受けた作品は、たぶん30年くらい前と思いますが、斉藤由貴(になりきった南伸坊さん)でした。失礼ながら、あのお顔でセーラー服を着てましたもんね~、いやあ、夢に出てきそうな、ものスゴい破壊力でした。ちゃんちゃん。


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佐野洋子さん著「死ぬ気まんまん」。死ぬことをしっかり考えると、結局、気持ちが楽になるというハナシ。 [本]

他人様には興味ゼロの話でナンですが、ワタクシ、今年(2017年)で55歳になります。四捨五入すると60。どうだあ!と自慢してもしょうがないけど。

55歳ですから、職場(会社)が潰れるか、粗相でクビにならなければ、定年退職(60歳)まであと5年。サラリーマン生活完了までカウントダウンに入ったなあ、と特に感慨もなく思うわけですが、

カウントダウンといえば、シゴトの終わりもさることながら、「死」へ向かっても着実に歩みが進んでいるわけです。

今のワタクシは大病を患っていませんし、当面は自殺の予定もないので〇年後に死ぬ、と明言はできませんけど、ここ数年来の心身衰え曲線を人生グラフ上に外挿すると到底80歳まで生きないだろうし、70歳も無理だろうな、と思う。

出張するとすぐ疲れるし、そうでなくても体が重い(8kg近くもダイエットしたんですがね)。どこでも寝られるのが自慢だったのが最近は自宅でさえ寝つきイマイチ。食生活が乱れると、とたんに胃腸の調子が悪くなる。風邪をひくとなかなか治らない。物忘れも年々ひどくなって、先週は出張先のホテルを二重予約しちゃいました(すでに予約していたことをスッカリ忘れ、別のホテルも予約した)。

まあ、50歳を過ぎれば、多かれ少なかれ「衰え」はみな感じるでしょう。しかし、ワタクシは、せっかちなためか、「ほお、こんな調子で、衰えて、体が痛くなって、病気で死ぬんだな~」と思う。この手の話(自分の死)を始めると、縁起でもないぞお!と一昔前なら一喝だった。しかし、最近は風向きが変わり、必ず訪れる自分の最期と向き合おう、と、「終活」なんつう上手い言葉も登場しましたね。これは良いことであります。

で、なんとなく、「死」を扱ったエッセイ本を、最近、いくつか読んでみました。

テーマがテーマだけに切り口が千差万別でした。一番、いやなタイプは宗教臭の強いやつ。死後の世界がどうこうと、ハッキリ言ってどうでもよい。次に嫌なのは極限まで達観つうか諦念状態に入っているたぐい。ま、死んだ経験のあるヒトなんて誰一人いないから、各人、好き勝手なノリで語って良いんですけど。

さて、ワタクシのツボにはまり、「そうだよ、そう!」と相槌を打ちまくったのがこの本です。

絵本作家、佐野洋子さんの最後のエッセイ「死ぬ気まんまん」であります。

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佐野洋子さんは70歳のとき癌転移により余命宣告を受け、2年後の72歳でお亡くなりになっています。余命宣告からの日々をつづったのが、この「死ぬ気まんまん」。言葉は悪いですが、このエッセイは痛快ですね。

死ぬ覚悟ができた人の手記つうと、悲壮なイメージがあるけど、佐野さんはカラッと、こう書かれています。

「私は闘病記が大嫌いだ。それからガンと壮絶な闘いをする人も大嫌いだ。ガリガリにやせて、現場で死ぬなら本望という人も大嫌いである。」

いや、ほんとそうだ。私もSNSで闘病生活をつづる人の神経がいまいちピンとこない。批判ではありません、だってSNSに何を発信しようと個人の自由だから。有名人の闘病ブログをみて、同じ病で苦しんでいる人が「勇気をもらえる」気持ちは分からないでもない。でも、病気(の苦しみ)なんて、しょせん極私的なもので、苦痛そのものを分かち合えるわけでなし、意地悪に観ちゃうと「不幸の披露(アピール)」じゃん、と思ってしまう。読むほうだって、どうなんでしょう、「〇〇さんって大変そうね。髪の毛、やっぱり全部抜けちゃうんだ。ずいぶん痩せたから、そろそろ死ぬのかな」な~んて大半は、興味本位・好奇心メインではないですかね。

昨今は、ネットでチョイと調べれば「〇〇ガンのレベル〇は5年生存率〇%」とか「化学療法の詳細」などなど簡単かつ無慈悲に医療情報が入手できちゃうわけで、そんな現在、闘病記の意味って果たしてなんだろう?と思ってしまう。

その点、佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」には、ごく素直な日常の怒りや喜びがフツーにつづられてヨロシイと思う。ドケチな友人(?)への今更ながらの恨み節も人間味があってナイスです。笑えるエピソードは、余命宣告を受けてから、ジャガー(外国車)を、どーんと購入するくだり。そう、死ぬときに金を抱え込んだってしょうがありません。私が同じ立場だったらソナス・ファベール社(イタリアのメーカ)の高級スピーカーを買いますけどね。

ワタクシが、一番ツボにはまった文章はこれです。

「私は死ぬのは平気だけど、痛いのは嫌だ。痛いのはこわい。頭がボーッとして、よだれを垂らしていてもいいから、痛いのは嫌だ。」

ハイッ!まったく同感です。ワタクシもじゅうぶん人生は楽しんだ、やりたいことはやった、だから死ぬことは怖くないですが、痛いのだけは勘弁してほしい。モルヒネだか鎮痛剤だかを大量に投与いただき、延命治療なんてしなくてよいから痛くせずに死なせてください。お願いっ!

話は変わりますが、佐野洋子さんといえば、伝説的ベストセラー絵本「100万回生きたねこ」を描かれた(&書かれた)天才作家であります。あの物語には様々な読み方がありますが(それが名作たるゆえんですね)、私は、「なんのために死ぬのかが、すなわち、なんのために生きるかなのだ」と読みました。主人公のねこが、無為に百万回生きるより、ある目的のため(物語では白いねこのため)、最後に一度だけの生を「選んだ」と読めば、佐野洋子さんの「死ぬ気まんまん」はまさに彼女が作品どおり生をまっとうした記録なのだ、と痛感しちゃいます。

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さて、もう1冊。

椎名誠さん著「ぼくがいま、死について思うこと」です。

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日本や世界各国の「死の捉え方」を、お葬式や、埋葬など習慣の違いから明らかにしていく前半から、やがて、椎名さん自身の豊富な体験談、そこから椎名さんの「死に対する考え」へと話は展開します。世界中で冒険旅をしてきて、危機一髪で命拾いしたもろもろのハナシ、辺地ホテルでポルターガイスト(幽霊の一種ですね)に遭遇した件など、それだけでも読み応えがありますね。

さらには、サラリーマンから作家に転身し、馬車馬のように働くうち、うつ病に陥って、ビルから飛び降りそうになった顛末など、「死」に近づいた体験までがリアルにつづっておられます。

このエッセイ、椎名さんは69歳のときに書かれたのですが、さすが文章の名手、と深く納得しちゃいました。「死」という扱いづらいパーソナルなテーマをみごとに深掘りされております。私は、自分が死ぬとき、これ読んで死のう、と思っちゃいましたね。

椎名さんが知己の方々に、死に関するアンケートをとっている最後の章はホッとするというか、いいなあ、と思っちゃいます。私も椎名さんと同様に、死ぬときは「延命治療は拒絶」、葬儀は残ったものの判断にまかせるけど別にしなくても良いや。仲の良い友人たちで「偲ぶ会などやってくれても良い」と思います。

30年も関東に住んでいながら、友達は出身地の北海道(札幌)にしかいないワタクシ。友人代表のカニオ君、私を火葬したあとの灰のほとんどは石狩湾あたりに撒いてほしい(法律的にできないのかもしれないが)。残りチョットの遺骨は(最終的には)家の者や、飼い猫のもこの遺灰と一緒に埋めてほしいです。「偲ぶ会」は、いつもの呑みメンバーを集めて開催をお願いします。居酒屋の天井裏から、皆さんの様子は覗いているよ(怖いわ!)。

・・・などと、自らの死について考えると、結局、気持ちが楽になりますね。もちろん今すぐ死にたいわけではないけど。そのときに向かって、ま、しっかり生きていくことにしましょう、ハイ。


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1965年ノーベル物理学賞の受賞者、朝永振一郎博士の著作が素晴らしい、というハナシ [本]

今年(2016年)も日本人科学者がノーベル賞を受賞したそうですね。おめでたいことでございます。

さて、たまたまですけど、日本人二人目のノーベル賞受賞者(1965年)である朝永振一郎(ともなが しんいちろう)博士の著作を、ワタクシ、いま読んでいるのでした。

朝永振一郎(1906年生、1979年没)は京都大学出身。量子力学の分野において、理論構築に多大な貢献をされた方だそうです。リョーシリキガク、と聞いただけで、ギャッと叫んで逃げ出すワタクシごときが、朝永博士の偉大さを推し量るべくもありません。

asanaga3.jpgしかし、朝永博士は難解理論を並べるだけの学者でなく、若い人たちへ向け物理学を分かりやすく紹介・解説する(といっても、それなり難しいが)活動を続けていたのでした。

その著書がすごく面白いんです。たとえば「物理学とは何だろうか(上)(下)」という本。理科好きの高校生が、この本を読んだら物理学者を目指すだろうなあ、くらいの魅力的な内容なんです。

なんといっても朝永博士の文章が素晴らしいんですね。物理学の「美しさ」「完璧さ」に対する敬意にあふれ、読者と感動を共有しよう、というスタンスなんです。上から目線で「教える」姿勢ではありません。それゆえ親近感がわき、抵抗感なく文章に入り込めるんですよ。

一方、物理学の歴史的発見に関しては、顛末を、まるで小説のように書いてくださるので臨場感が抜群なのであります。

なんという卓越した筆力であろうか!

朝永博士と同じ京大出身、日本人ノーベル賞受賞者第1号(1949年)の湯川秀樹博士(1907年生、1981年没)も、物理学をひろく理解してもらおうと入門書を書かれています。知的かつ論理的で素晴らしいと思いますが、残念ながら、朝永博士のような「いっしょに感動しよう」という一体感には乏しい、教科書的な面があって、読み進むのに少々苦労いたしました。

下写真の左が湯川秀樹博士、右が朝永振一郎博士です。写真をみても湯川博士のいかにも研究者然とした様に比べ、朝永博士は気さくなご近所のオジサンという雰囲気ですね。

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朝永節にのめりこんだワタクシ、調子にのって、こんな本も読んでみました。

朝永振一郎著「量子力学と私」であります。

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うはあ。これはヤバいでしょう。量子力学なんざ手も足も出ないもん。無理あるだろう・・・と思うのは早計でございます。

あなた、驚いてはいけませんぞ。

タイトルにもなった「量子力学と私」は、20世紀前半の量子力学を総括しつつ、自らの研究を紹介する講演記録です。研究者向け講演会ですから、素人には内容はチンプンカンプン、全く理解できません。ところが!これが実に面白く、いたってスムースに「読み進める」ことができるんです。内容が理解できずとも、リズム感のある文章にグングン惹きつけられ、一気に読み終わりました。いやはや、恐るべき文章力であります。

朝永振一郎博士の著作にゾッコンのワタクシ。超ローカルに私のまわりを、朝永ブームが渦巻いているのであります。

ところで「量子力学と私」には、朝永博士のドイツ留学時(1938年から1939年)の日記が収録されています。この「滞独日記」があまりにツラい内容で、読むと苦しくなります。頑張って研究(理論計算)をしても、ことごとくうまくいかず、ほかの研究者の成果を見聞きしては、自分はなんてダメなんだ、と悶々とする日々。ノーベル賞をとるほどの優秀な頭脳でも、悩み、苦しみ、焦り、自己否定や絶望に陥る時代があるものか、と感慨深かったです。偉大な学術成果は簡単に出来上がるものでなく、煩悶や苦悩から生まれたってことですわね・・・はい。

以下、朝永振一郎博士の「滞独日記」より抜粋です。ううっ。切ない。

ゆううつ、計算がうまくいかない (1938年11月17日)

手紙をみて、なみだが出てきた (11月22日)

自分一人とりのこされて人々がみな進んでいくような気持がする (11月23日)

日記をかくのがおっくうになってきた。書けばとかく泣き言になるからだ (12月9日)

どうしてこうも意志薄弱なのだろうと、心があんたんとしてくる (1939年1月19日)

人間のもってうまれた気質というものが、結局は色々な後天的な気質をおしのけて人間の一生を支配するらしい。何となくいつでも失敗する人、何となくいつでも損する人、何となくいつでもうしろに引こんでいる人、何となく人にきらわれる人、などというのを見ていると、教育や境遇は、その人の職業や位置を決定するが、その中でのその人のありようを決定するものはただ生得のものだけであるように思われる (1月19日)

2月23日の計算、誤りなことを見出す。その間に1月たっているのだ。バカもこうなるとはなはだしい (3月30日)

こんなに計算に考えが左右される人間は、いっそ計算などやめる方がいいのかもしれない (4月3日)


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大槻ケンヂ著「40代、職業・ロックミュージシャン」がツボにはまりまくり! [本]

久々にツボにはまった本をご紹介します。大槻ケンヂさんの「40代、職業・ロックミュージシャン」(アスキー選書)であります。いやあ、これには笑ったなあ~。

小説ではございません。ロック・バンド筋肉少女帯のヴォーカルとして活躍し、小説やエッセイにも手を染めるオーケンこと大槻ケンヂさん(1966年生まれ)による対談集であります。

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対談のお相手は80年代バンドブームで登場したロックミュージシャンの面々。髪を振り乱しステージせましと暴れていた(当時の)若者たちも、いまや40代あるいは50代です。本の帯にあるように「金・女・音楽」が、いつしか「仕事・健康・子育て」に変わった中年たちの、「今」のリアルを、オーケンが笑いとペーソスをからめながらヒアリングしてくれるんです。もう、たまりません。

たとえば、ロック雑誌のインタビューで、還暦を過ぎた大御所アーチストが「オレもずいぶん歳をとったもんだゼ」などと述懐しますがね、それは第一線で長きにわたり活躍した男の勲章・・・みたいなニュアンスで出てくる言葉です。

ところが本著で語られるのは、そんな見栄やポーズなどブッ飛ばした、赤裸々つうか、大笑いというか、まんま超リアルな中年の生き様であります。50代半ばのロック小僧であるワタクシ、おおいに腑に落ちるのであります。

ですから、登場するロックミュージシャンに関する知識ゼロでも、この対談集、全然、楽しめちゃうんですね。

有名ドコロでは、SHO-YAの寺田恵子さん。レッド・ウオリアーズのダイヤモンド☆ユカイさん。ラウドネスの二井原実さん。サンプラザ中野さん。ROLLYさん。ZIGGYの森重樹一さん、、、などなどが名を連ねます。

対談転記などは野暮なので、興味のある方は本を読んでいただくのが一番ですが、

ワタクシがつい、「そうだよ、そう!」と声が出た箇所を書きます。それは二井原さんがライブに関して語った言葉、「ラウドネスも広いところでやるときは、基本イスを置いたほうが(お客が)来てくれますね。もうね、疲れたら、座ってくださいって感じです。」というくだり。

わははは、ハードロックやヘヴィメタルって、ファンも、それなり年寄りですもんね。ワタクシもライブでは、イスに座っていたい。ジューダスプリーストの武道館公演に行ったとき、観客が全員総立ちで(そして最後まで立ちっぱなし)、ワタクシは途中で疲れはてて、後半1時間はイスに座ってましたよ。ロブ・ハルフォード御大の雄姿を観るどころか、前席のヒトの背中を観ながらのコンサート・・・トホホ。(もちろん、アンコールでロブさんがハーレーダヴィッドソンで登場する、お約束パフォーマンスはしっかり拝見しましたがね)

というわけで、ロックコンサートの主催者は、われわれのようなオールドファンのために、「着席エリア」を設けて欲しいです。単にイスがあるのではなく、立つこと禁止!立ちあがるなら、そこから出てけ!なんてね。

ロックン・ロールは永遠でも、オーバー40のミュージシャンとファンの体力は、すでに限界近いのであります。ちゃんちゃん。


ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」で、柄にもなく世界の限界を考える日。 [本]

今日は、ある本をテーマに世界(の限界)を考えちゃおう、というトンデモナイ企みであります。グダグダ支離滅裂記事になるのは確実ですけど、たまに哲学ネタもいいじゃん?といったユルイ感じでヨ・ロ・シ・ク(←ここは矢沢永吉さん風に)。

素材は、20世紀哲学の天才と目されるウィトゲンシュタインさん(1889年~1951年)が、20代後半に執筆した(出版は1922年)、有名なこの本であります。

どどーん。論理哲学論考。うは、なんつう小難しいタイトルだろう。

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実際に内容も小難しいのであります。分かったふりをして解説めいた事を書くと、私のバカっぷりが露呈しちゃうので、ちょっと違う切り口から入ります。この著作にワタクシが惹かれた背景、みたいなとこから始めますね。

ここから自分のハナシ。最近、ワタクシが気に入らない筆頭事項。それは、世の中の多くの会話場面で、会話の前提たる「語の定義」が不正確という点。具体的に言えば、聞こえはいいがその実(じつ)漠然としたターム(単語)を振り回し、悦に入ってる困った輩が多い事です。

たとえばワタクシの飯のタネでもあるプラント電機設備。この業界では「システム」という単語が頻出します。システム・エンジニアリング、システム立案、システム構成・・・ここで言うシステムとは、変圧器とか開閉器とか監視装置といった個々「単品」ではなく、それらを組合せて機能を発揮する「総合体」という意味が多いでしょう。

野球選手ひとりは「選手」にすぎないが、複数の選手、監督やコーチ、スタッフが集まりチームとして、試合に勝つ目的で集合すればシステム・・・ちょっと強引だけど、こんなイメージでしょうかね。

しかし。システムという語はひじょうに広義であって(カッコよく言えば「上位概念」で)、事物の集合体のみならず、維持体制、管理、秩序といった概念をも含んでおり、なんらかの限定をしなければ、極論、わけが分からんのです。

このシステムという語を使って会話しても、各人が思ってる「システム」範囲が異なるので、やがて会話はズレていきます。一見、便利にみえた上位概念タームは具体性で問題が多く、使うほど核心から遠のき、ますます、あいまい化するわけです。(それゆえ、企業トップや管理職、広告業界がやたらに使う、という困った逆説が生じる)。

このような「まるめて一丁あがり」的な単語に横文字コトバが多いのは、見栄え(聴き映え?)ゆえか、ギヴ・ミー・チョコレート的な日本人メンタリティでしょうか。いっぱいありますよね。

ソリューション、トータル、インテグレイト、ワン・ストップ、マネージメント、ガバナンス、エグゼクティヴ・・・etc.

「もともと概念をあらわす言葉なんだから、具体性などないだろ?」と反論ありましょうが、いや、私が言いたいのは言葉自体でなく、「あいまい概念を明確に限定もせず、平然と使って済ます」現状世間の有様のことです。

ほら、ダイエット会社のCMキャッチコピーに「結果にコミットする」ってあるでしょう。どういう意味でしょう?コミットとは「積極的に関わる」ことだけど、「結果に積極的に関わる」って何だあ?何してくれるの?ダイエットの最中にコミットするなら分かるけど、「結果」って終わったあとに分かること。それを言うなら、コミット(関与)ではなく、ギャランティー(保証)じゃないのか?でも企業側が結果を保証しちゃったら、客が痩せなかったとき返金しなきゃいけない。そりゃマズイよ、みんなが必ず痩せるわけじゃないもんなあ、田中君、なんとかならんか。あっ、部長、「コミット」っていう便利な単語を見つけました。やるな、田中君、「結果にコミット」、いいじゃん、何も保証してないし、モンク言われても、ぼくらコミットしたもんね、で済むもんなあ。田中君、君は今、この場で昇進だ。

・・・と、田中君の顛末は知らないけど、そんな調子じゃないかな。

以上、前置きが長くなりましたが、やっと本題に到達です。ウィトゲンシュタインさんによる「論理哲学論考」の話です。

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私なりに乱暴に本著をまとめると「言葉って限界があるよね」「その言葉で考える限り、論理や思想にも限界(境界)があるよね」「語れることと、示せること、って別物だよね」・・・という、けっこう当たり前を言ってるんです。それらの証明に難しい論理式がどっさり出ますので、専門外読者にはチト厳しいですが。

言語で語ることの限界、なんて当たり前じゃん、と思った方。それって当たり前でしょうか?

古今東西、「語れないはずのこと」を、まるで事実のごとく語り、議論してきた多くの先人たちがいるわけです。

語れないものは文字通り語れない。たとえば倫理。たとえば美。究極をいえば神。

ドラスティックにウィト先生はこうおっしゃる、「明らかなことだが倫理を言葉にすることはできない」。では、それをお題に議論してきた哲学はどうなるのか?ウィト先生いわく、「過去の哲学の命題や問いは、間違っているわけではない。ナンセンス(無意味)なのだ」と。

さらに「神」について強烈な一言をかましてます。中世だったら異端審問会で火あぶりの刑ですなあ。いわく、「神が姿をあらわすのは、世界のなかではない」。そう、もしも神が姿をあらわすとしたら、「神を語りえる」別の世界であって、少なくとも、われわれのこの世界ではない、ということ。だって神は「事実ではなく」それゆえ「語りえない」のだから。

うわあ、そんな事、言っちゃうんだ、と読んでるこっちがビビります。「世界とは、起きたこと(事実)の総体であって、事物の総体ではない」と断言する先生ならではの信念が感じられます。

語れるものは明確に語れる、その逆論理が本著の最後を飾る名言に収斂します。

「語りえないことについては沈黙するしかない」

ウィト先生は「語ること」=言語と論理、を明確にしようと、それらの限界(限定性というべきか)の解明に挑み、ついに世界の限界(境界)という考えに至ったのでしょう。「論理哲学論考」には論理式がたくさん出てますが、実は、直観的に結論に至ってるように思える・・・なんて、失礼を言ってはいけませんね。

こんな入り組んだテーマを扱う本著を、ワタクシごときが考察しきれませんけど、この本がワタクシのツボにはまる理由はまさしく言語と世界の限界(性)と境界、という発想にあります。

冒頭の話に戻りませう。世間に横行する「あいまい概念用語」の濫用は、ウィトゲンシュタインさんが到達した限界を、まったく気にとめていない所業です。むしろ限界性を意識しない=開き直っている、というべきか。

広義概念を包括した(かのように拡大解釈された)あいまいな単語を並べ立て、あたかも「何かを語った」気分になる大馬鹿たちの横行。一方で、各論の深堀りから逃避し、言われた側の認識(思い込み)のズレや乖離など、知ったことかの政治家や企業経営者たち。そやつらに従順にしたがう家来や子分どもが、ますます「世間のあいまい化」を増長させる。

もちろんウィトゲンシュタイン先生は、上位概念が悪いなどと言ってはおらず、それらが細かな”要素命題”に分解され個々が明確に「語りえる」ものになれば論理的に成立する、と考えるわけです。問題は、言説を、あいまいのままに放ってしまうこと、それは一種のコミニュケーション不全ですよね。

ほら、あるでしょう、漠然と下のものに檄を飛ばし「あとの細かいことは、現場でよろしく」なんてね。そんなんだから、新国立競技場の建設費はウン千億円に膨らみ、エンブレムデザインは盗用騒ぎになり、STAP細胞はありま~す、になり、年金記録はズブズブの抜け落ちだらけになり、と、惨憺たる有様を呈するのであります。あれ、ちょっとエラソーに話を広げすぎたか、ははは。

ウィトゲンシュタイン先生の「論理哲学論考」。小難しいけどスリリングな思考体験を与えてくれます。読書ならぬ、毒書の類ですねえ。

最後に、ヴィトゲンシュタインさんのお名前の日本語表記。以前はラストネームのWiを「ヴィ」と表記していました。今回、再読した光文社文庫もそれを踏襲してます。しかし最近は「ウィ」と濁音抜けで記載されることが多いようです。このブログ記事はそちらに準じています。本件は「語りえるもの」だからハッキリしてほしいね。ドイツ語圏なら、ウ、ではなく、ヴ、が正解のような気もしますけど。ま、いいか。

と話がバラバラに拡散(崩壊)したところで、今日はお終いっ。チャオー。


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